So-net無料ブログ作成
検索選択

周防大島が生んだ星野哲郎 [周防大島]

周防大島が生んだ偉大な作詞家星野哲郎

寺山修司は、星野哲郎を戦後詩人のベストセブンに加えて、次のように書いている。

私にはやっぱり星野哲郎がいいような気がする。勿論、星野哲郎の詩には精神の深い燃焼といったものはない。文字にして印刷してみたところで、おそらく新しい感動など惹き起こさせたりはしないだろう。しかし、私は「詩の底辺」ということばを使うなら、星野哲郎こそ、もっとも重要な戦後詩人のひとりだと考えるのである。しかも、彼は活字を捨てて、他人の肉体をメディアに選んだのだ。

なかにし礼は星野哲郎について「最初で最後の作詞家」と言った。
最初で最後の「作詞家」。人は長じると、時代の変化に応じ、表現のスタイルを変えたり、ほかの領域に手を広げたりするものだ。しかし、星野先生は、自分の呼吸のようなものを守り通したのだと思っている。

周防大島逗子ケ浜・筏八幡宮境内の「なみだ船」の歌碑には次のように書かれている。

星野哲郎は本町和佐の出身で、戦後の日本の歌謡史を鮮やかに彩った名作詞家の一人である。彼は人を愛し、人との出逢いをこよなく大切にし、その千数百余点にも及ぶ珠玉の作品は誠実、尊敬、信頼、愛情、仁義、努力、希望など、彼の人生観の綾糸で織りなされており、つよく大衆のこころをひきつけている。 

星野哲郎の作詞の原点は、故郷周防大島町大字和佐での若き日の闘病生活にある。彼は地元の開導小学校、旧制安下庄中学校、静岡県清水の高等商船学校を卒業し、日魯漁業「第6あけぼの丸」の漁船員として東シナ海で操業していた。23歳の時、結核性の腎臓病を発病し故郷に帰らざるを得なくなり、療養に専念することになる。

病床で投稿生活を送っていた彼は、コロンビア歌詞募集に応募した。曲名は「港のスケッチ」、商船学校時代に練習船で上海を訪ねた時の心象を書いたものだ。その詩が20人の入選者の中にあった。これが作詞家星野哲郎の始まりである。

「今日の山に全力で登る。先のことは考えない」これが星野哲郎の信条だった。

動画「星野哲郎の故郷 周防大島 和佐」

022.JPG

星野哲郎へ戻る


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:地域

nice! 1

コメント 0

トラックバック 0

トラックバックの受付は締め切りました