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明治維新と周防大島(旧東和町) [周防大島]

明治維新と旧東和町

四境役大島口の戦いは、幕府軍艦の大島郡砲撃から始まった。慶応2年(1866)6月8日未明幕府の蒸気船2隻が松山藩兵を乗せた商船10艘をひきつれて油宇の沖合へ現われ、大砲5~6発を民家へ向けて打ちこみ、商船乗組の兵150人を油宇村へ上陸させた。この軍勢は、松山藩が幕府から長州再征の出兵命令を受けて興居島に勢揃いし、軍艦に護られて6月7日夜半大島郡目指して出港したものである。油宇、伊保田は全く無防備の状態であった。ここは村上亀之助の給領地であるが、当人は大砲隊(司令以下13人)、一番小隊(軍監以下43人)、二番小隊(同30人)、半小隊(12人)、狙撃三番銃隊(隊長以下26人)、同四番銃隊(同上)、同五番銃隊(同上)計176人を率いて安下庄の配置についていた。この中には農兵も交っているから油宇、伊保田には戦闘員は一人もいなかった。上陸した松山藩兵は村人へ応接を求め幕府の布告書を渡し、大家と思われる家をのぞき廻り、伊保田へ越して村上亀之助邸へ侵入、防長地図、旗指物等を分捕って船に帰った。非戦闘員には危害は加えなかったが、この時の砲撃で油宇の民家一軒が焼けた。

浄西寺の石垣には砲弾の当った跡が今も残っている。婦女子はいち早く山へかくれたが、子供をおぶった婦人が一人逃げおくれ、砲弾の破片に当って親子共に即死した。勘場記録によると次のようである。

 油宇村、村上亀之助様御知行所給庄屋市兵衛組
  伊勢次郎妻せん 三拾四歳
 右賊兵同八日襲来大砲打懸候節割玉当り即死仕候事
この外、同記録には
 屋代村、村上亀之助様御知行所給庄屋弥兵衛組
   拾九歳 岡本新太郎
 右村上亀之助様農兵として罷出候処同十五日戦争の節小銃にて急所
 打抜かれ即死仕候事
このような悲壮な記録が沢山残っている。(山口県文書館史料)

(昭和42年11月1日とうわ広報より 一部修正)

四境役には、大島郡在住の足軽はもちろん僧侶、百姓、町人と階級をとわず参加した。外入の西光寺住職泰龍は護国団に入り活躍したが6月11日幕府の軍艦が久賀を砲撃して上陸した時追原で手を打ちぬかれて負傷。

森村の百姓清七は人夫として小松村に行き、遠崎~小松間の味方海上輸送に働いたが小松瀬戸口で幕府の軍艦から大砲を打ちかけられ割れ玉に当ってケガをした。

森平野・西方・小積・沖家室・外入の猟師は、狙撃隊に入り日前の西正寺で狙撃の訓練をした。また、婦女子はなぎなたのけいこにはげんだ。勘場では郡内諸士の妻女を集めてなぎなたのけいこをさせ、それをさらに各村々へ広めていった。このように切迫した状況下にあっては百姓の娘とてじっとしてはいられず意を決して立ち上ったのが平野村の三人の娘である。

 大島郡婦女へ御ほう美 一鳥目七貫文ずつ
  平野村百姓甚兵衛娘 ふて  
  同    金蔵娘 はる 
  同    儀右衛門娘 いと
 右の者共は、この度大島郡戦戦争の時、何か女手でできることがあれ
 ば手伝わせてくれといって第二奇兵隊陣所へ願いでた。兵士の洗濯な
 ど数十日間実にまじめに働いた。身分の低い者の娘ではあるが時勢を
 よくわきまえた感心のことである。よってほうびとして銭七貫文ずつを与
 える。

萩菊が浜の女台場にまつわる長州女の意気が長州民謡「男なら」に歌われているが、それに劣らない大島女性の心意気がうかがわれて愉快なものである。

(昭和42年12月1日とうわ広報より)

 国をわざする猪武者を
  ねらいそらすな狙撃隊
とうたわれた狙撃隊は、藩内各地に結成された有志の隊のうち猟師で編成されたものである。戦いの勝負は隊の多少にかかっていたから藩はできるだけ多くの小銃を農民に持たせることにつとめた。

元治2年、土居村鉄砲御請状によると、55組ある五人組百姓がそれぞれ鉄砲請状をだしている。幕府相手に戦おうとする未曾有の非常時に竹槍で立ち向かうより新兵器を与え生死の間を立ち働かせることがお上の慈悲ともいわれている。これと並行して狙撃訓練も各所で行われた。給領地の猟師は領主の下で訓練が行われ、その指揮下に入ったものであろうが、御蔵入では勘場から狙撃詰稽古を命ぜられた。西方、森平野、小積、沖家室、外入の猟師や、鉄砲を下げ渡されている農民は、日前の西正寺で合同狙撃訓練をしている。

慶応元年11月11日の晩から22日まで12日間初日参加者百十五人から次第に数を増し21日の170人が最高であった。朝昼晩の三度の炊き出し、ローソク、灯油の使用量、畳替え、障子の張り替え等の所要経費からみると泊りこみの訓練であったと思われる。この経費は三分の一を勘場がだし、残り三分の二が地下負担とされ、平等に分け負担をしている。狙撃兵の活躍は目覚しく、慶応2年6月8日松山藩兵が油宇、伊保田へ上陸したときいち早く現場にかけつけて敵状を確かめ、勘場へ報告したのは森村の狙撃兵である。

勘場では、その日夜襲の軍議が立てられたが久賀が危なくなったので中止をした。6月16日笛吹峠より押し寄せた松山兵の司令、嚮導をうち殺して味方を大勝利にみちびいたのも狙撃兵の手柄であった。

(昭和43年1月1日とうわ広報より 一部修正)

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