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大島みかんの歴史 [周防大島]

大島みかんの歴史

大島郡のみかんに関する文献では、慶長15年(1610年)7月7日付の三井但馬守検地帳に「蜜柑一本米弐升」とあります。つまり安下浦にミカン1本があり、それに年貢が2升かかってきたことを意味しています。

それから6年後の元和2年の文書にも「みかん壱本米弐升」の文字を見ることができ、1本のミカンに米2升もの税金がかかっていたのですから、その実が売られたものであっただろうし、また珍重せられていたことがわかります。

その後天保年間(1830~1844年)の風土注進案によりますとミカンのあったのは油宇、和田、内入、神浦、外入、地家室、久賀、安下庄、戸田、日見となっており、昔より現在の東和町全域にあり県下一の柑橘面積を有するゆえんが分ります。

風土注進案によりますと油宇村の者に、ミカン売却代が銀375匁とあり、その頃米1石が銀70目程度とみられるから5石余で、今日の金にして5~10万あまりの売上げがあったことになります。

万延元年(1860年)4月12日に当時の周防国大島郡西方村長崎に生れた山本万之丞は明治20年頃優秀な1本の蜜柑を見つけそれをもらって穂木にし、台木にザボンをつかって果実1個5、60匁のものを作り人々をおどろかせたそうです。土地の人は万之丞翁蜜柑と呼び、県および郡内ではこれを山本系と名づけ今日ににたっています。

山口みかんの7割強が大島産で東和町柑橘栽培面積500㌶は県下一ですが、昭和37年から農業構造改善事業により昭和40年には600㌶となる見込みです。

この大島郡のみかんは色、味つやと三拍子揃い山口みかんの名声は全国に知れわたっていますが、これも歴史が物語るごとく去人の道があればこそです。

(昭和39年7月1日東和広報より 一部改変)

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